摺針峠(摩針峠)
もう10年以上前のことになります。母の遺品の整理中、小倉遊亀さんの画集で<摩針峠>を見たとき、一瞬その場の空気が変わったように思われたのでした。すっかり魅せられました。その後、三越で小倉遊亀さんの展覧会があって、実際にその絵(屏風絵)を前に(感激のご対面?)画集とは違った大きさ、その迫力にしばし見とれてきたのでした。
摺針峠のお話をご存じない方もいるかと思いますので簡単に。「ある若い修行僧が、自分にはとても仏の道は無理そうとあきらめて僧坊を去ることにして帰る途中、一人の老婆が針が折れたので斧から針を作っているのだという姿を見た。斧から小さな一本の針を作ろうとする姿に己の修行半ばであきらめてしまったことを恥じて引き返した。」というものです。私が書くと「それがどうした?」みたいになっちゃうので、ちゃんと書いてあるページをさがしていたら、小倉遊亀さんの摩針峠について書いてあるページがありましたので、そちらをリンクしておきますね。小倉遊亀と摩針峠
ストーリー以上に、小倉遊亀さんの絵の魅力だったのかもしれません。その僧が弘法大師だったということであるなら実在の地名であることに考えが及んでも良いのに、私は今回琵琶湖の旅を考えるまで全く考えたこともありませんでした。来月、かねてより行ってみたかった芭蕉のお墓(義仲寺)そして、彦根城に行くことにいたしました。そこで摺針峠がその近くにあると知ってビックリ。
そのあたり(彦根城などのあたり)に北国街道と中山道の分かれ道があるのです。軽井沢の家の近くにも北国街道と中山道の分かれ道があります。それが追分宿(信濃追分)の名の由来でもあって、いつもその<分去れ>(分岐)を目の当たりにしている私は、そのたどりつく先に同じようにある分かれ道を見てみたくなったからでもあります。双方の分かれ道から金沢方面をめざしたということであって、彦根のあたりのその分かれ道まで行く人は中山道を通ったのでしょうけれど。気持ちとしては、<軽井沢近くの追分から双方に分かれて行く道をたどるとまた合流している地点に行ってみたくなった>ということなんです。単に道が分かれているということだけではなくて、それまで旅は道連れみたいにして一緒に旅して来た人たちが、そこで別れを惜しんでそれぞれの道に行ったことが<分去れ>といわれる所以のようです。
我が家の近くを旧中山道が通っています。その道をずっとたどると軽井沢のあのあたり、そして彦根のあたりを通って行くのですものね。和宮さま始め京から江戸に下る人たちは、この中山道をこられたのですよね。そんな感慨を持って行ってこようと思います。
話がアチラコチラいきますが、この「斧から針を作ろうとする心意気」ときどき気弱になる私たちが股関節症と向き合う<気の長さと根性(?)>に、どこか通い合うものを感じたりもしております。